エッセイ:essay
(cici)
hitomiとの思い出話を送って下さい
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買い物ゲーム  14/2/15
 いつも昼は御飯を食べながら、妻の日課になっている某テレビ局の情報バラエティ番組を一緒に見る。
 その中に「コーデバトル」「三色ショッピング」などのファッションアイテムの買い物ゲームがあり、ファッションに
興味のある妻はそれにハマっている。
 私はどちらでもいいのだが、妻はどんな形や色が流行っていて何をおさえておけばいいのか?など、お洒落な
タレントや女優やモデルの選ぶコーデや、ファッション・エキスパートのアドバイスなどが参考になるからと楽しみ
にしている。
 ただこのコーナーを見る様になってから影響を受けたのか、妻は服やファッションアイテムを買う回数が増えた。
まあ、パチンコはしないし旅行に行くわけでもないし、他に贅沢をする事は無いのでストレス解消には仕方がない
と諦めている。
 さすがに妻はミニスカートを穿かないが、それにしても還暦を過ぎたオバちゃんが娘と同じような年頃の芸能人
の服装を参考にしているファッションに、多少違和感を覚える。
 これが瞳だったら、あのタレントさんの様にトレンドのマストアイテムが似合うのになあと、バッチリきめている
亡き瞳の姿を脳裏に描きながらテレビを見る。
めばえ  13/12/15
 夕方、あるテレビの情報番組を見ていると、ラストにその日に生まれた赤ちゃんを紹介していた。
 『めばえ』というコーナーで、画面には生まれて間もない赤ちゃんと、若い夫婦が映し出される。
 赤ちゃんはグーに握ったちっちゃな手を開いて、ちっちゃいながらも全力のアクビをした。
 何とも言えぬ可愛いさで、他人の子でも初々しい赤ちゃんは、見ているだけでも幸せな気分になる。
 新米パパは命名したばかりの名前を、新米ママの胸に抱かれた赤ちゃんに教え込む様に呼びかけていた。
 毎回、僅かな時間だがほのぼのとした光景にほっこりとさせられると共に、ふと瞳が生まれた時を思い出す。
 子ザルの様な小さい赤ん坊だったが、抱いているうちに新米ながら父親としての実感がジワジワと伝わってきた。
 この時ばかりは今までに味わったことのない、言葉では言い表せないほどの最高の気分になった。
 泣いた、笑った、怒った、寝た。どんな仕草も愛おしい。たまらなく可愛くて思わずオデコにチュー。
 これからはずっと一緒だよ。君の成長は私たちの喜び。私たちの子供に生まれてきてくれてありがとうと感謝した。
「ラブリン」 13/11/15
 「ラブリン」の愛称で親しまれている片岡愛之助は、TVドラマ「半沢直樹」に出演して絶大な人気を得ている。
 ドラマではオネエな金融庁主任検査官・黒崎を演じて、オネエ・キャラのイメージが濃いが、彼は歌舞伎界では
知らない人のいない凛々しい俳優だ。
 3年前、暴力事件を起こして京都・南座の歌舞伎公演で無期限謹慎になった市川海老蔵に代わって片岡愛之
助が穴を埋めたが、市川宗家のお家芸「外郎売(ウイロウウリ)」をたった3日間の稽古でマスターして大役を務めあげ
南座を連日満員にさせた事があった。
 彼の演技の吸収力と役者魂に私は感心したものだが、上方歌舞伎ではすでに人気があった彼がそれ以来、
歌舞伎界以外でも全国区の人気者になったのもうなずける。
 今回の人気をきっかけにテレビやマスコミに顔を出す機会が増えた中で、彼の出身地が堺市というコメントが
目に留まった。
 ネットで調べると、出身校は三宝小学校で瞳の学校の隣の校区である。もしかしたら中学校も同じかなと期待
したが引っ越しをして違う中学校だった。しかしさらに調べてみると高校は瞳と同じ信太高校の出身だった。
 なんとなく「ラブリン」が身近に思えてきて、心の中で応援するようになり、もっと色々な役柄でドラマに出て活躍
をして欲しいと思った。
 瞳の葬式の時に想像以上の大勢の友達が弔問に訪れたが、もし生きていたら瞳も「ラブリン」と愛されていたに
違いないと親心ながらにそう思った。
9年目 13/9/1
 連日猛烈な暑さが続く真夏の午後、亡き娘の友達のMちゃんとRちゃんが額に汗を滲ませて来訪した。
 瞳がこの世を去ってから9年目になるが、毎年お盆の前後に墓参りと仏壇に手を合わせに遠方から来てくれる。
 二人は車を運転するわりにはどちらかというと方向音痴で、当初は何度も私に電話をかけて道を尋ねながらなんと
か我が家に辿り着いていた。しかし来訪を重ねるうちに、ここ数年は道に迷う事なくスムーズに来られる様になったと
か。
 二人とも話が好きなので私達夫婦とも意気投合して話が弾んだ。会話の中で時々瞳が出てきて、私は瞳の面影を
重ね合わせながら話を聞いた。
 年齢は瞳と同じ35歳。結婚の予定を聞くと最近の男子が頼りなく見えるのか、束縛のない今の生活がいいのか、ど
ちらも結婚願望が無いとか。 
 「親孝行したい時には親はなし」との諺があるので親孝行を奨励すると共に、悔いの無い人生を送る為に何かする
様にアドバイスをした。
 Mちゃんは「ロック系のライブに行って発散します」、Rちゃんは「映画観賞を趣味にします」と言った。両方とも瞳の趣
味と同じで、生前は彼女達と気が合っていたのが感じ取れた。
 1時間がアッという間に過ぎ「また来年も来ます」と言って帰ったが、9年経ってもこうして訪ねてくれ、「嬉しいね、あり
がたいね、よい友達を持って瞳も幸せやなあ。もし生きてたらなあ…」と毎年妻と語る。
義父の初盆 13/8/15
 今日は義父の初盆に出席した。
 義父は長男だが子供は娘が二人。跡継ぎがいないので義父母の入っていた先祖の墓は、孫の代まで男子がいて
末永く墓守が出来る弟に譲り、義父母の遺骨は永代供養をしてくれる西本願寺堺別院に納骨した。
 この西本願寺堺別院は鎌倉時代に建立され「北の御坊さん」として親しまれていて堺では最大の木造建築である。
明治4年から10年間は堺県の県庁として使用、境内には与謝野晶子の歌碑があり、高さ20m、幹の周り3.65mもある
銀杏の巨木が、寺の歴史を語るかのように根を下ろしている。
 今日はその寺で盂蘭盆会が営まれて、4名の僧侶による読経が始まると大きな本堂は静まり返り、時々吹く爽やか
な風が夏の暑さや都会の喧騒を忘れさせてくれる。
 義父は義母と共に由緒ある当院に納めたのできっと満足され、また私たち子孫を温かく見守ってくれていると思う。
 読経中、目を瞑れば元気だった頃の義父の在りし日々を思い出したり、瞳が小学生の頃に家族でこの寺に何度か
お参りしたことを思い出した。
 そして今頃、瞳は天国で再会した義父に可愛がってもらっていることだろう。
プール 13/8/1
 昨日、40過ぎの女性客が1年ぶりに来店した。
 彼女はバツイチで5年と4年の男子小学生を抱える母子家庭ながら、昼は大阪市内の靴屋さんで働き、夜は堺のス
ナックで週3回働いている頑張り屋さんだ。
 昨年の6月に離婚、7月にお父さんを亡くしてから長男が情緒不安定になり、授業中にウロウロしはじめ、担任の先
生と相談しながら対応をしてなんとか落ち着かせたそうだ。
 ところが今度は次男がチック症にかかり、まばたきや咳払いを繰り返すようになった。よくよく考えてみると、神経質
な長男ばかりに構い過ぎて次男をなおざりにしていたらしい。
 仕事の合間を縫って遠くのチック症専門医へ診せに連れて行ったり、独りになった母親を元気づけに大阪まで行くな
ど、当店に来れなかったのは忙しい日々を過ごしていたからだとか。
 夏休みに入り子供たちは友達と近くの大浜公園のプールにしばしば行くようになって、二人とも帰宅するなり「プール、
楽しかったわ」と元気に語り、彼女は明るく朗らかになったと胸をなでおろしていた。
 大浜公園のプールは自宅から自転車で5、6分の所なので瞳も小学生の頃、私達夫婦とか友達と連れ立って泳ぎに
行っていた。
 私はその女性客の話を聞きながら、頭を水につける練習をしていた時、泳げるようになりお互いに感動した時やプー
ルでイキイキしていた小麦色の瞳を思い浮かべていた。
反省 13/7/1
 今夜は妻と自宅近くの南海グリルに行った。食事を終えてコーヒーを飲みながらくつろいでいると、小さなお子さん
連れの三世代家族の微笑ましい光景を見た。
 2人の子供のはしゃぐ様子を見ながら「ヒトちゃんが生きてたら、今頃、あれぐらいの孫がいてるのになあ」と妻がポ
ツリと漏らした。
 二人で夭逝(ヨウセイ)した娘の思い出話をしているうちに「瞳に悪いことをしたなあ」とお互いに目を潤ませながら反省
をした。
 私は現在のスナックをして35年、昔は景気が良かったので店が終わると毎夜のようにお客さんを引き連れて飲みに
行ったり食べに行ったりした。
 その当時は飲酒運転が厳しくなかったので堺から大阪の不夜城・ミナミまで足を延ばしたこともあった。酔うと気が
大きくなり、5人乗りの車に7人乗せて飲み屋に行ったり、赤信号も無視して突っ走った。
 「酷いことをしてたなあ。何も無かったのは運が良かっただけや」と、今になって考えると恐ろしくなる。
 妻もみんなとワイワイするのが好きで、夫婦共々毎日酔っていて昼過ぎまで寝ていた。
 そんな日々だったので瞳が小学生の時、毎朝、送り出すことが出来なかった。
 また昼食は1時半ごろになるので、学校が休みの日は友達と遊んでいても、昼ご飯の時間がみんなとズレて寂しい
思いをさせた。
 瞳の気持ちも考えずに、若かったとは言え節度のない生活ぶりでに寂しい思いをさせた。
 その事を思い出すと「本当にすまないことをした」とつくづく反省をしつつ目を潤ませる。
 ※夭逝=年が若くて死ぬこと
母の日の贈り物 13/5/15
 日曜日にスーパーに行くと花屋さんが盛況だった。しばらく観察していたらカーネーションがよく売れている。
 5月の第2日曜日…、よく考えると母の日だった。
 この前、テレビで見たが最近の母の日のプレゼントで目を引くのが沢山あり、その変わりように驚いた。
 陶芸教室、人間ドッグ、エステ、パラグライダー、東京スカイクルーズ、カフェのチケット、超豪華客船・コスタ・クルー
ズなど品物ではなく体験型ギフトが増えた。
 安倍ノミクスによる最近の景気回復ムードを反映してか、ギフトの予算がを増やす動きも一部でみられ、テレビでは
『母の日ミクス』と銘打っていた。
 「私、母の日にヒトちゃんに口紅を貰ったわ」と、一緒にテレビを見ていた妻はポツリと言った。
 瞳が初めて貰った給料で買ってくれたそうで、「まさか貰えるとは思っていなかったので嬉しかった」とか。
 私には父の日のプレゼントはずっとなかったが、なさぬ仲の妻にプレゼントをしたのを聞いて、今更ながら嬉しく思った。
さよならベンツ 13/4/15
 私は若い時はカーマニアで色々と車を乗り換えていたが、歳も50に届く頃、「いつかはベンツに」と目標にしていた憧れ
の車を手にした。
 中古車ながらも腐っても鯛、高額で一見バブリーなベンツS500は威風堂々としていてシートに座っただけでもリッチな
気分になり、このカーマニアの胸がときめいた。
 瞳も私の血を継いだのか車が好きで18歳になって直ぐに免許を取ってしばらくは軽四に乗り、その後はニッサンのラシ
ーンに乗り継いだ。
 瞳が二十歳(ハタチ)の頃にベンツが我が家に来たのだが、瞳を乗せると「こんな大きな車、よう運転せんわ」と舌を巻い
ていた。
 ベンツを買った当初は瞳を乗せてドライブしたり、家族で小旅行をした。そうそう買い物も行ったし、瞳の病院への送り
迎えもした。
 瞳がいなくなった頃の10年ほど前からは週に一度、仕入れや所用の時しか乗らなくなった。だから15年間で18000km
しか乗っていない。
 だから手放すのには勿体ないのだが、義父が手術する前のお見舞いに行く途中で故障、義父は手術後に植物状態に
なり、とうとう意思を交わさずじまいに終わった。そんなケチがついたのと、不景気な折に燃費や車検代や経年劣化で修
理代が高くつくので乗り換えることにした。
 そして今日、車屋さんがベンツを引き取りに来た。15年間の思い出が詰まった車をいざ手放すとなると寂しく惜しい気持
ちになった。
 特に瞳との最後のドライブで先祖の墓参りに行った時、車の中で色々と会話をした光景が目に浮び、胸がジーンとして
きた。
呼び出し音 13/3/15
 私たち夫婦は仕事があるので遠くの病院のICUに入っている義父を再々見舞いには行けないが、義姉は隠居中なの
で毎日義父を見舞いに行き妻の携帯に容態を報告をしてくれていた。
 妻の携帯に呼び出し音が鳴る度に「悪い知らせかも?」と思い私たちはビクッとする。妻は毎回「怖いわあ、どうしよ」
と不安に怯えながら電話を取る。
 手術の6日後に携帯の呼び出し音が鳴った時も心に不安がよぎった。そして妻に「お父さんの意識が戻らなくなった」
と義姉が涙ながらに訴えた。
 家族全員が元気に戻ってくると信じていただけに妻も私もその電話の意味に動揺して、その日以降の電話の呼び出
し音には毎回ビクついた。
 9年前、瞳が入院いていた時も電話の呼び出し音が怖かった。
 意識不明で入院して5日目で少し持ち直したが、それから9日後からまた意識がなくなった。
 担当医の話では奇跡を期待するしかないと言われ、毎日毎夜、ご先祖様に手を合わせて「奇跡で瞳を助けて下さい」
と祈願した。
 そして入院して1ヶ月目、病院から「容態が急変した」との電話があり、取る物もとりあえず車を飛ばして瞳の元へ駆け
つけた。
 重い空気に包まれたベッドの中の瞳は生気のない顔をして眠っているだけで、いくら呼びかけても何も答えてはくれ
なかった。
 病院に着いて3時間半後、私たちの切なる願いは届かず、奇跡は起きることはなく瞳は息を引き取った。
 そんな経験があるだけに電話の呼び出し音にはビクビクさせられ、瞳の時とダブり悪夢が脳裏をよぎった。
義父の回想〜臨終の日 13/3/1
 最近寝つくのが遅くなりいつも寝るのが朝の8時半から9時頃、その日は9時に寝ついて3時間後に腓(コムラ)返りで目が
覚めた。トイレをしてあと1時間寝ようと2階に下りると妻の携帯電話が鳴っていた。その後すぐに私の携帯も鳴った。
 「これはヤバい!」と電話を取ると「お父さんの様子がおかしいので、先生から家族を呼ぶようにと言われた」と義姉か
ら電話。案の定、不安は的中した。
 妻を起こして車を走らせるが渋滞気味。妻は「親不孝ばっかりしてるから、死に目に会われへん」と嘆き、私は心の中
で「神様、キセキを起こして下さい」と祈りながらハンドルを握った。
 病室には午後1時に着き一目散に義父のベッドのそばにかけ寄り手を握って、「お義父さん、頑張ってや」と声をかけ
た。義姉は「一緒に住もな。面倒みるからな」、孫たちも「キセキ起こして」「みんなで看るで」「一緒にタイガース(私の店)
に行こな」「おじいちゃん、よう保育所に送ってくれたなあ、覚えてるか」と思いつく言葉で励ましていたが、到着時に35あ
った血圧が次第に下がり12、3を計測。
 当初、温もりがあった手が徐々に冷たくなり、赤みがかった顔色も徐々に血の気が無くなり、期待から絶望に変わる。
妻は「耐えられへん」と取り乱した。
 やがて呼吸が止まり、心拍も停止。1時58分、担当の医師が「ご臨終とさせていただきます」と告げると妻は「こんなん
信じられへん」と号泣した。
 そう言えば9年前、25歳で亡くした娘の時と同じ光景が目に浮かんだ。
 あの時も病院から「娘さんの容態が急変したので、急いで来てください」との電話があり、心の中で「神様、キセキを起
こして下さい」と祈りながら車を走らせて病院へかけつけた。
 病室では枕元の血圧計や心拍数のモニターとにらめっこしながら、娘の手を握って何度も何度も「キセキ」を祈りモニタ
ーの数字が上昇する事を願った。
 そして娘の元に駆けつけてから3時間後、医師の「ご臨終です」の冷たい言葉が私たちの胸を突き刺し妻は号泣した。
私は冷静さを装うも溢れる涙をこらえられずにいたのを思い出し、あの時の辛さや悲しみが甦った。



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