堺の人物伝-3
力で繁栄を築いた人々
大内義弘おおうちよしひろ正平11=延文元〜応永6年(1356〜1399)
中国・九州にかけての守護職であったが、明徳3年(1392)に和泉・紀伊の守護も兼ね
る。堺を本拠として善政を行い、また織物・塗物などの技術を導入して、堺の繁栄の
基礎を作った。
三好長慶みよしちょうけい大永3〜永禄7年(1523〜1564)

阿波の国出身の戦国武将。もと管領細川
家の被官。和泉・河内の代官として堺を支
配した。海船浜に広大な私邸があり、「堺
政所」ともなった。長慶は教養人として知ら
れ、和歌・連歌・茶の湯などを通じて堺衆と
交流した。
織田信長おだのぶなが応永元〜文明13年(1394〜1481)

永禄11年(1568)、上洛を果たした際、堺の財力に目をつけ、
矢銭の名目で二万貫を強請し堺をその勢力下に置こうとし
た。会合衆は当初これを拒否したが、信長の勢力には抵抗
しがたく、翌年屈した。
小西行長こにしゆきなが慶長5年(1600)没
秀吉の御用商人であった堺の薬種商、小西立佐(隆佐)の子息。秀吉にとりたてられ
て、肥後国宇土24万石の領主となった。熱心なキリスト教徒として知られる。一族を
挙げて堺に孤児院やらい病院を建てるなど、社会事業に尽力した。
長谷川藤広はせがわふじひろ永禄10〜元和3年(1567〜1617)
慶長19年(1614)、長崎奉行に堺奉行を兼ねる。大坂夏の陣後、混乱を収拾する為、
堺周り14ヶ村に年貢を免除し、農民が旧地に戻って耕作できるようにした。また、風
間六右衛門に命じて、灰じんに帰した堺の町の復興に努めた。
風間六右衛門かざまろくえもん元亀3〜元和4年(1572〜1618)
長谷川藤広の家臣。町割り奉行として、大坂夏の陣後ほとんど壊滅状態になった堺
の町の、復旧整理の任務にあたった。風間の構想は、堺の貿易港としての繁栄にあ
ったが、一部社寺から批難され、自刃した。
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