堺の人物伝-4
医術・仁術で尽くした人々
半井利長なからいとしなが永正4年(1507)没
京都出身。もと丹波利長。丹波家は、代々典薬頭を世襲する家柄で、利長も典薬頭となったが、
名医といわれた。大徳寺の一休宗純にも参禅し、仏門に入って道三と号した。晩年、堺に隠棲し
て、堺半井家の始祖となった。

半井家の祖、利長夫妻画像。名医の誉れ高い利長は、『半井家産前産後秘書』を著したという。
竹田薬師院(竹田円俊)たけだやくしいん(たけだえんしゅん)享禄2年(1529)没

「薬師院」は世襲の屋号である。竹田昌慶(応永22年・1415没)は明に渡り、医書や牛黄の秘宝
を受けた。その子善慶は、後小松天皇の病を治し、法眼となった。円俊の時、後土御門天皇・後
柏原天皇の病を治療して薬師院の号を賜り、堺に定住した。堺の代表的な医家で、代々、医書
の著述も多い。

阿佐井野宗瑞あさいのそうずい享禄4年(1531)没
堺の人。医師。大永8年(1528)、私財を投じ、明版の『医書大全』24巻を印刷刊行し、日本の医学
界に大きく貢献した。これは我が国初の医書の刊行であった。
半井ト養なからいぼくよう慶長12〜延宝6年(1607〜1678)
堺の医家。名医であり、文人としても高く評価されている。母は津田宗及の娘。松永貞徳につい
て俳諧を学び、堺流の古今伝授も受けて、和歌、連歌、ことに狂歌で世に知られた。徳川家綱の
時に御番医、ついで典楽頭となり、法眼に叙せられている。
小林安石こばやしあんせき寛政6〜安政元年(1794〜1854)
豊後出身。のち堺に移り住む。嘉永2年(1849)、緒方洪庵らと新しい種痘法を広める為に力を注
ぎ、堺に種痘を導入する主導的役割を果たした。
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