あいらぶ堺 サカイの風景-1b

南海本線堺駅周辺
H吉川俵右衛門の碑
 1704年(江戸時代)に大和川を河内の柏原あたりで北へ流れていたのをせき止め、西へ流す川に付け替えられた。そのため河口に大量の土砂で堺港が埋め立てられ、さびれていった。江戸の商人であった吉川俵右衛門は港の機能を回復するための大工事を発案し、20年かけて完成させた。
I天誅組上陸の地と堺事件発生の地
 (天誅組上陸)
 1863年(文久3年)8月16日、尊皇攘夷派の志士が兵をおこし、天皇を迎えるため京都を出てこの地に上陸した。その後、大和五条で代官所を襲撃するなど倒幕の先駆となった。
 (堺事件発生)
 1868年(明治元年)2月、当時堺の警護にあてっていた土佐藩士が無通告で上陸してきたフランスの水兵を殺傷する事件が起こった。その後、この責を負った土佐藩士11名が妙国寺で切腹した。
J波除住吉神社跡
 船霊龍王がまつられていた。江戸時代後期)、旧堺港の海上守護として住吉大社の御分霊を勧請して創建された。当初、現在の堺駅付近に鎮座したが、大正時代に宿院頓宮境内に遷座。
K水天宮跡(戎島町5丁34)
 総本山は福岡県久留米市にある神社で航海の安全をつかさどる水神で、水難よけ、海上安全、航海安全の神様。安政6年(1859年)この地に創立され、当時は本殿・拝殿を有し、多くの信仰を集めていました。井戸も船乗りから珍重されたおいしい水の給水井でした。安政の大地震や津波の被害、又ロシア艦の来航に備えて、御台場が急造された頃のことです。明治28年以降は井戸と小丘と榎の古木をとどめるのみとなり、時代が移りましたが、平成14年(2002年)に小さな祠で再建された。
 この水天宮跡と一緒に石銭場跡がある。石銭場は、江戸時代に船舶および諸問屋の取扱い貨物の石数に応じて入津料を徴収した所で、石銭は港の浚渫や石堤の築造費に使われていました。
L与謝野晶子 生家跡(甲斐町西1丁)
歌碑「海恋し潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」1878年(明治11年)〜1942年(昭和17年)明治、大正、昭和にわたる情熱の歌人。1878年(明治11年)2月7日、菓子商“駿河屋”の三女として生まれる。
M堺魚市場
以前、魚市場の前に内川があり、大阪湾で獲れた魚を水揚げしていました。近くにはレンガ造りの製氷工場もありました。
N戎島
寛文4年8月8日、不意に海中から浮き上がったと言い伝えがある。又、別名“亀島”ともいわれていた。現在菅原神社にまつられている“えべっさん”はこの地にあった。
O晴明の辻
昔からの言い伝えで、信太の森のキツネを母にもった陰陽師安部晴明という人が、神通力で占いがよく当たるというので、多くの人が占ってもらう為、おしかけていった。この辻へ占いの秘法「真夜中、ここへ立って問えば、自然に占ってくれる」という言葉を残して埋めたという。その後、人々は心配事があると、ここへ来て占ってもらったそうだ。
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