あいらぶ堺 ものの始まりなんでも堺

堺には日本で最初というものが色々あります。それが、今日の堺を育んできた文化であり、堺の人々の誇りでもあります。
[陸軍のカーキー服]
染色の業界でも堺はすすんでいた。
明治29年(1896)創立の合名会社大和川染工場は、輸出
綿布の加工染色を業とし、陸軍省指定工場であった。
そこで日露戦争以来の陸軍色ともいうべきカーキー色を
わが国最初に創案した。
しかし、カーキー色の軍服は敵から見えやすい為、のち
に帯青茶褐色に改良され、時を経て現在の大和川染工
所に至っている。

[セルロイド工場]
三井が工場設置を決めたワケ。堺の良質の水。
明治10年頃、日本は外国から輸入したセルロイドで、くし
やかんざし、擬さんご珠などを作り始めました。
ところでセルロイドの原料となる樟脳は日本が輸出してい
たので、セルロイド工業が盛んになるにつれ、国内製造
の動きが出てきたわけです。
まず製造会社設立を計画をしたのが三井家。立地につい
ては、セルロイド製造に最も重要な良質の水のある場所
が求められました。そこで選ばれたのが堺。大和川の水
質は勿論、灘の酒造りに提供するほどの井戸水の質の
良さが認められたわけです。こうして日本初のセルロイド
工場が明治41年(1908)に建設が着工され、同43年に完
工しました。今日の(株)ダイセルの基礎となりました。     
[瓶詰めの酒]
枡の量り売りでは、お酒がこぼれる。
そこで考えついた画期的アイデアとは…

もともと日本酒は全部樽詰めで、小売りは枡で量り売りして
いました。時代劇で、長屋のお内儀さんが「お酒を買ってく
るよ」と壺をかかえていくのは、量ったお酒を入れてもらう為
です。ところが、枡から壺に移す際、どうしてもこぼれるお酒
がもったいない。そこで、そのロスをなくそうと、瓶詰めの酒
を考案したのが堺の酒造業者であった鳥井駒吉です。彼は
この本初の瓶詰めの酒を、明治21年に開かれたスペイン万
国博覧会に出品し、日本酒の輸出をもはかっています。
当時の新聞、『堺周報』には、「瓶詰めの酒が衛生的で持ち
運びにも便利である」といった広告がでています。
アイデアマンの駒吉は、ビールの将来性に早々と目をつけ、
後のアサヒビール、大阪麦酒を創設しました。
  
   当時のビールの商標。苦い酒・泡の立つ酒と
    盛んにいわれました。
 
輸入された当時は、クシやかんざしの材料として
サンゴ・べっこうの代わりに使われていました



[機械縫製足袋]
福助マークの足袋が機械縫いの第1号
明治の中頃までは熟練工が一足ずつ仕上げていました。しかし一日三足ぐらい
がやっと。「なんとか足袋を機械で縫えないか」と考えたのが、福助足袋(現在
の福助株式会社)の創業者の辻本福松です。            大正時代のポスター
ドイツ製の靴縫機械を改良して、明治28年に足袋製
造の機械化に成功しました。足袋縫ミシンの特許第
1号も取得しています。
機械化による大量生産で、全国の小売店に福助人形
のマークが並び、大正4年にはミシンを使う女子社員
が300人を超える発展ぶりでした。
ちなみに、福助人形の商号は二代目辻本豊三郎氏が
取り入れたものです。明治33年の正月に、伊勢詣でを
した辻本氏は、古道具屋で見つけた福助人形を大い
に気に入り、「縁起がよい」と商号にし、文字通り福を
読んだ訳です。
[紡織用ワイヤーヘルド](5/23)
日本の紡織の発展は堺から
大正6年(1917)、堺の宮田利喜太郎が
わが国最初である。このヘルドによって、
日本の紡績業界は技術面で大きく前進
した。
さらに宮田利喜太郎は自動ワイヤーヘル
ド製造機械鋼線入`絖も発明し、大正9
年には資本金200万円、従業員200
名、月産1000万本の日本工業株式会社
を設立した。
[足踏み回転脱穀機
大発明は自転車の廃品から生まれた
元禄年間に発明された農具・千歯扱きせんばこきで苦労
して稲こきしなくても、稲をなにかに打ち当てれば脱穀
できる!堺市石津町の高野長次郎は自転車の車輪
のようなものを回転させて、そこに稲を打ち当てたらど
うかと考えました。
そして大正7年(1918)、自転車の廃品を集め、主軸と
足踏み動輪に自転車のギアを取り付けてチェーンで
連結して作り上げたのが、足踏み回転脱穀機第一号
でした。
この脱穀機は一人で1時間3〜6斗のもみをこくことが
でき、稲こき作業の能率を画期的に飛躍させました。

足踏み回転脱穀機は、昭和
40年頃まで、約50年間に渡
って使われていました。
[フロン式冷凍機]
快適な生活空間提供に大きく貢献
昭和12年(1937)、現在のダイキン工業堺製
作所は、日本では始めて「フロン式冷凍機」
の開発に成功した。「フロン式冷凍機」の登
場により、それまで使われていた爆発の危
険があり、強烈な臭いのする「アンモニア式
冷凍機」は完全に追いやられた。現在の家
庭にある冷蔵庫、ルームクーラーの普及に
大きく貢献した。
[コンビナート]
新しい堺の象徴、臨界工業地。人工の街の生い立ちと今…
コンビナートは、総合に関連している企業の工場が一定の地域に集中している状態
を指します。そのため、極めて経済的・合理的な生産形態ということが出来ます。
堺泉北臨海工業地の場合は昭和33年(1958)、八幡製鉄(現、新日本製鉄)の誘致
が決定したことに始まりました。大型船舶が入港できる港湾、巨大な消費市場、豊
富な労働力…、という恵まれた立地条件。当時の高度成長政策を反映して、ガス・
電力・石油・化学などの重化学工業が次々と進出してコンビナートを形成しました。
このような開発が進むにつれ問題になるのが環境整備。そこで堺泉北臨海工業地
においては、緑化政策がとられています。現在では、緑が生い茂り、季節による様
々な花を咲かせています。

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