あいらぶ堺 ものの始まりなんでも堺(経済・商業)

堺には日本で最初というものが色々あります。それが、今日の堺を育んできた文化であり、
堺の人々の誇りでもあります。
[頼母子講]
金銭感覚は堺から?
大阪では頼母子講、江戸では無尽というが、元来仏教からでた言葉で、信者が寺を建てるの
に金を月掛けし、それを複利法で無人に増大させるのが仕組み。その発祥は室町時代(1392
〜1572)といわれ、中国貿易で栄えた堺から始まった。天保4年(1833)堺の紀州屋敷では、
人数を60人とし、15年を満金と定め、免古地善右衛門が銀預かりとなった頼母子講がありま
した。
[金魚]
遣明貿易で赤、白、黒の金魚が堺へ。江戸時代には飼育ブックも
金魚の原産地は中国の江西省とされている。中国から金魚が堺に輸入
されたのは文亀2年(1502)とされ、その色模様には、赤、白、黒の3種が
あった。寛延元年(1748)に堺の人安達嘉之が、初めて「金魚養玩草(金
魚をそだて草)」という書物を著わした。それには金魚のよしあしの見分け
方、オス、メスの見分け方、病気とその治し方、歴史、種類、飼育法など
が書かれていて、金魚を世間に広めました。
こうした本が出るくらいですから、おそらく庶民の間にも金魚が広まったの
でしょう。一時、金魚は堺の名産となったほどです。なお、「金魚養玩草」
            は金魚 の由来にもふれ、文亀2年正月20日、泉州左海さかいに伝えら
            れたともしるさ れています。
[鳥毛と菱垣廻船]
より沢山の荷物を積むには?堺人の合理主義が創った船
文禄元年(1592)、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、軍需品輸送
の功によって堺商人は黒い鳥毛をもらっている。堺に船はこ
れを舳先につけ、全国海上航行自由の免許とした。
また、元和5年(1619)頃、堺人の造った船に菱垣廻船があ
る。これは、船ベリを菱垣にして、多くの荷物の積載に利便
を加えたもので、いずれも我が国最初のことである。

[私鉄鉄道]
「火をふく車」を遠巻きにする人にモチの雨?民間鉄道の熱いスタート
わが国最初の私鉄鉄道は阪堺鉄道です。堺の鳥井駒吉が着手しました。明治18年(1885)
12月、汽笛一声、列車が難波を出発しました。当時すでに官営鉄道が営業していましたが、
一切を民間の手でなしとげたのは阪堺鉄道だけ。花火があがり、駅ではあちこちで見物人
にモチまきをするなどの熱狂ぶりでした。
初めは、「火をふく車」といい、尻込みする人もいましたが、すぐに慣れ、明治21年5月には
堺の吾妻橋まで営業距離も延長されました。機関車はB型のタンクロコ、客車は上、中、
下の等級制がとられ、ほぼ1時間に1本の割合で発着しました。駅員の勤務は、かなり重
労働でしたが、新時代のカッコイイ職業。上も下も
よく働きました。料金は難波から上等16銭、中等
8銭、下等4銭でしたが、乗客、貨物収入は増え
る一方。開業初年から黒字を出し、明治31年には
32.2%の高配当をして人々をおどろかせました。
この阪堺鉄道は31年の春、南海鉄道と合併、そ
の後南海鉄道は和歌山まで全通するなど、交通
網の発達に大きな役割を果たしています。
[商業定期航空]
堺の海上から高松へ。初の民間定期便が飛ぶ
堺・高松間の定期航空が、わが国商業定期航空の第一号
です。これは、大正11年(1922)、堺のパイロット、井上長一
が市から大浜の水面を借りて、日本初の民間飛行場(日本
航空輸送研究所)をつくり、定期空港をはじめました。
従来、飛行場は主に軍事用のものでしたが、この飛行場は
もっぱら飛行機の実用的利用を目的としたもの。大正11年
1月から堺・高松間の定期空港をはじめ、14年5月には堺・
今治間の郵便飛行を開始しました。さらに、15年には別府
へも定期空路を広げたので、堺は民間空港の要となりまし
た。当時は、乗客用・郵便用飛行の他に魚群探知や遊覧
飛行も行ったといわれています。この定期航空は、その後
の民間航空事業に多大な功績を残しています。
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