あいらぶ堺 ものの始まりなんでも堺

堺には日本で最初というものが色々あります。それが、今日の堺を育んできた文化であり、
堺の人々の誇りでもあります。シリーズで1〜3題づつ紹介します。
[チベット探検(3/20)
バター入りの雪を食べて国境越え。教典を求めてヒマラヤを行く
お経によって内容が違う事に気づき、正しいお経を知る為に、ついにはチベットの秘境にまで出かけ
た信念の人が河口彗海です。堺の樽屋の長男であった彗海は「釈迦一代記」に感動して僧になり、
明治32年に日本人で初めてチベット入りしました。
当時チベットは鎖国をしており、外国人が入ったとわかれば無事では済まない状況にありました。
彼の苦労話は、その著『チベット旅行記』に詳しく記されています。国境越えをする雪山で、麦こがし
粉に雪とバターを加えてこね、唐辛子をつけて食べた時のおいしさ。身体に堺岡村製の丁字油を塗
り、氷の川を渡った話。ヤクの糞を薪に代え、火をおこした話。そして盗賊に身ぐるみはがれる災難
までが、淡々と記録されています。
その苦労と仏教への熱い信仰が報われて、6年後の春、無事に帰国しました。のちに、再びチベット
に渡り、今度はチベット語一切経に加え、書籍、美術品、民具、動植物の標本を持ち帰りました。
彗海は、昭和20年に80歳で亡くなりましたが、彼のチベット旅行記の記録は、今でも高い学術的価
値を保っています。

[水練学校](3/20)
60年で20万人のカナヅチ退治。“三日で泳げる”浜寺水練学校
日本海でロシアのバルチック艦隊を破るなど、世界に冠たる海国日本の青少年がカナヅチでどうす
る!…こうした考えのもと、大阪毎日新聞は、明治39年7月1日、浜寺水練学校(略称ハマスイ)を
スタートさせました。
ハマスイはエリートコーチ陣の徹底した指導によって“三日で泳げる”と評判に。全国各地から入門
者が詰めかけました。また、水泳を“神聖なる遊技”と女性にもすすめたので、芸者たちも入校。ハ
マスイがにぎわいをみせっるにしたがって“浮遊器”や“水中自転車”も登場し、大浜は当時のマリン
スポーツのメッカとなったわけです。
大浜は様々なスポーツの会場となりましたが、この後、明治41年、第1回全国中等学校庭球(テニ
ス)大会も開かれています。

[学生相撲](3/20)
第1回大会には3万人の人出!大浜土俵は朝早くから大フィーバー
大正8年(1919)11月1日早朝、難波、恵比須の駅には大勢の人が押し寄せ、どの電車もハチ切れ
そうな混雑ぶりで堺を目指しました。
当時のこの大ラッシュは、大浜で開かれた第1回全国学生相撲大会(毎日新聞社主催)が原因。
雨天で1日順延となった為、。待ちに待った観客が会場の堺大浜特設運動場に早くから詰めかけ、
開場4時間前の午前4時には、席取りをする人の姿も見られました。
まるでアイドル・コンサート並の人気ですが、試合開始後の熱狂ぶりもすごく、当日の新聞には「3
万の観覧者、或いは熱奮し或いは酔うが如し」と記されています。
大浜がこの大会の地に選ばれた理由の一つに、阪堺電車と南海鉄道による交通の便の良さが上
げられます。また関西初のレジャーゾーンとあって、一流旅館が軒を並べ、選手、観客の宿泊に好
都合だったこともあります。こののち、明治36年、大浜では初の素人マラソン大会(毎日新聞社主
催)も開かれました。様々な職業の人が参加したユニークなものでした。
健脚自慢が集まった素人マラソン大会。仕事の
道具を持って走るのがルール、とあったレースは
仮装競争の様でした。完走したのは郵便配達夫
と樽屋職人だけとか。
3万人もの観衆が詰めかけた大浜土俵
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